圓龍斎立花国秀鍛之 (坂本龍馬の愛刀 )

Katana : Ennryusai Tachibana Kunihide kitaeru kore / Kaei 6 ushitoshi 8 gatu Miyawada Taira no Mitsutane tame Shison no moukeru kore (Tokubetsu Hozon)

銘(表)
圓龍斎立花国秀鍛之
銘(裏)
嘉永六丑歳八月宮和田平光胤為子孫設之
 
商品番号
KA-127
価格
2,700,000円 (税・送料込み)
鑑定書
特別保存刀剣
時代
嘉永6年(1853年)
刃長
86.1 cm
反り
2.91cm
元幅
3.3cm
元重
0.9cm
先幅
2.2cm
目釘穴
上野国
赤銅磨地一重
 

白鞘入り
(附)総革包家紋蒔絵鞘太刀拵

(解説)

圓龍子国秀は、中山一貫斎義弘の門人にて、天保頃に上野国安中藩・板倉家の抱え工となり、嘉永年間に「五郎入道正宗」の作刀地である相模国鎌倉に新たな志にて移ります。

坂本龍馬は陸奥守吉行を佩刀していましたが、他に圓龍子国秀の長刀を、江戸の北辰一刀流千葉定吉道場に入門し、その修行が終わる頃に国秀へ作刀を依頼し、土佐へ持ち帰ります。

帰国の途、初めて自身の刀を手にした龍馬は嬉しさ故、何度も鞘から抜き見つめたことでしょう「相州鎌倉住国秀・嘉永七歳八月日」 長さ:二尺六寸六分。

この刀は、土佐勤王党の同志、弘瀬健太にのちに譲り、現在も子孫の弘瀬家が歴史民族史料館へ、龍馬の愛刀として寄託し現存しています。

本刀の圓龍子国秀は、他に見ない銘ぶりで「圓龍子」の「子」を「斎」とし、師である一貫斎義弘の号の一字を、特別に使用しているところから、余程の注文であった事が伺えます。

鎬造、庵棟、身幅尋常にして、重ね厚く、大板目に杢目を交え地沸は厚く満遍なくつき地景、元より切っ先まで良くつき、互の目は多彩な変化を見せ、所々浅くのたれて刃寄りの柾目肌に金筋、砂流し、足、葉が複雑に現れ、圓龍子国秀の傑出した特別な作刀であった事が分かります。

帽子、中鋒延びて、焼き深く尖って浅く返る、生茎、二段化粧鑢、目釘孔一

 

【人物:宮和田光胤

宮和田光胤は、平安時代から続く古族で、桓武平氏から分かれた千葉氏の血筋を引く家柄で、下総相馬群宮和田村(現:取手市)の名主で剣客です。(1816年 ― 1888年)

藤田東湖、国学者平田銕胤の門人となり平田派国学〈国家神道)を究め、浪士組(新選組の前身)結成の際活躍し、千葉周作道場にて北辰一刀流の免許皆伝を受けています。

宮和田光胤の長男:勇太朗は文久3年に京都・等持院の足利幕府三代の将軍(尊氏・義詮・義満)の木像の首と位牌を、賀茂川の河原に晒し首として捕れた人物です(足利将軍梟首事件)。

二男の宮和田進は、大村益次郎(日本陸軍の創始者)を暗殺した一人で、その際に闘死します。

尊皇攘夷の志は父・光胤の影響を強く受けていたことが伺えます。

坂本龍馬・宮和田光胤は、千葉一門道場の同じ門下生であり、圓龍子国秀の本刀が出来上った頃、龍馬が本刀を見て自身の刀を依頼した事も拭えません。

その龍馬と光胤の長刀が、無傷でこのように現存している事は喜ばし限りです。本年は宮和田光胤の生誕200年となります。

本刀に付随する生の太刀拵えは総革巻きにして、柄巻き等の糸部分に黒漆を塗り、野外の実戦に耐えられる入念な制作となっており、鍔は長寿の象徴である亀甲紋の太刀鍔に、目貫に大きな這龍を配し、質実剛健な太刀拵えです。鞘に大日本武徳会(明治28年結成)の紋章が蒔絵で描かれており、武徳会結成後の明治期に後から入れられたと思われます。

幕末の動乱期、坂本龍馬や宮和田光胤などの、時代を切り開く大きな決断を左右し又、見てきた圓龍斎国秀の傑出した、歴史的遺産と言えます。

 

 

【取り扱い品】
金属工芸 (置物、花器、香炉)、武具 (兜)、武具 (鎧)、日本刀(太刀、刀、脇差、短刀、槍、薙刀)、お拵え、刀装具(鍔、目貫、小柄、笄、縁頭、)、漆芸品(ぬりもの)、蒔絵工芸、屏風 等
買取も随時いたしております。