菊池槍)銘 石貫親国(末延寿)
集団で用いることで、より戦闘力を発揮する「菊池千本槍」の登場は、その後の日本の戦法に大きな影響を与えました。 鎌倉時代から戦国時代末期にかけて活動した、延寿派が打った「鵜首造り」の槍を菊池槍と総称します。
延寿派は戦国時代末期まで名脈を伝えますがその後、滅亡します。 建武2年(1335年)、箱根(神奈川県) の戦いにおいて、足利直義の率いる兵3,000名と戦った菊池勢1,000名は足利勢に圧され、武器の大半を失い, 敗走寸前の状況に陥りますが、竹藪から竹を切り各自が腰に差していた短刀を結び作らせた槍を発案しす「菊池千本槍」。 結果、菊池勢は窮地を出し敵を敗走させまます。古刀期の末までには、槍として洗練されたものが作られると、江戸期には茎を短く磨り上げて多くは、短刀に仕立て直されています。
本作は、鋒には横手をつけない鵜の首造りとし、身幅が狭く、重ねが厚いのが特徴です。 茎(なかご)磨上。 焼刃は直刃仕立てにて、板目肌が流れ刃よりには、柾目肌が良く現れます。よく錬れた鍛えは梨地肌となり、地沸細かくつき、地景入り柔らかく九州肥後の地鉄です。
菊池槍と言われるものは、ほぼ全てが無銘もののために、国や時代の確実性が低くいものですが、在銘である本作は貴重なものといえます。菊池一族の「菊池千本槍」は、多勢を征する事の例として、武家の精神的支柱の一つとされます。 本作は、往時の武功を偲ばせる、菊池槍の在銘品です。
●石貫親国
親国は肥後国の菊池一族が拠点とした菊池の(現在の菊池市)、玉名荘石貫で作刀をした末延寿鍛冶です。同派の刀工は、国の字を冠する者が多く、天文(1532年)から元亀(1570年)ごろ活躍しており、この一族より同国の同田貫派が誕生します。